福岡の駅名が「博多」である背景には、秀吉と豪商がいた

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第35回は福岡県。遣唐使の時代から海外交易の拠点となった博多。戦国時代に荒廃した博多を商人の町として復興したのは、秀吉と親交を深めた豪商でした。彼がいなければ「博多駅」はなかったかもしれません。
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北九州工業地帯をつくったのは、遠賀川で運んだ石炭

福岡県は、中国山地から連続している筑紫山地が西へと広がり、それを遠賀川や福岡平野、筑紫平野が分断する形になっている。

筑紫山地が中国山地と同じ地質を持っていることは、山口県の秋吉台と同様のカルスト地形(編集部注:海で堆積した石灰岩が隆起し、地上で雨水や地下水で浸食された地形)が福岡県の平尾台にあることでも分かる。

この平尾台の周囲では石灰石を産出したのでセメント産業が盛んになった。また遠賀川流域にはかつて筑豊炭田があり、鉄道が開通する以前は、遠賀川を使って海岸まで石炭を搬出した。

明治期、下流域には官営八幡製鉄所などが建設され、この石炭を利用し、北九州工業地帯が形成された。

遠賀川沿いに広がる筑豊炭田

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

僧侶が貿易を仕切っていた博多

博多は朝鮮半島や大陸と距離が近く、島と入り江に囲まれた天然の良港の条件を備えていた。そのため遣唐使の時代から朝鮮半島や大陸との交易の拠点とされてきた。

元の国が日本に攻め入った時もこの地を上陸点としたし、反対に豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した時も、補給の拠点となった。博多は古くから海外とのゲートウェーだったのである。

室町時代以降、貿易が盛んな頃の博多では、禅宗の僧侶が外国語ができる実務家として貿易を仕切った。また、宋人が数多く住み、禅宗の寺が造営され茶やうどん蕎麦、ういろうなど多くの大陸の文物が博多を通して流入してきた。

博多は時の大名の支配を受けながらも、堺のような商人の自治都市として繁栄したのである。

だがその後の戦国時代の戦乱の中で荒廃した時期もあった。再生の転機となったのは豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役(1592年~1598年)である。博多は出兵の兵站(へいたん)基地として見直され、隣県・佐賀にあった名護屋城を支えた。

茶の湯で秀吉に接近。博多を復興した豪商

商人の自治都市として繁栄した博多には「博多三傑」と呼ばれた豪商たちが登場する。島井宗室(しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)の3人である。

このうち、島井宗室と神屋宗湛は秀吉おかかえの商人だが、大賀宗伯は徳川の時代になって黒田長政が福岡に入部した後の商人である。今回はこの中でも秀吉を博多へと呼びこんだ神屋宗湛に注目してみよう。

神屋宗湛の曽祖父・神屋寿貞(かみやじゅてい)は博多商人で茶人としても、また石見銀山を開発した人としても有名である。寿貞は石見の銀を貿易につぎ込んで博多を代表する大商人となった。

こうした豪商の家に生まれた宗湛もまた、一族の人間として博多で手広く商売をしていた。しかし、戦乱の時代には、戦災を避けて一時唐津に移動し、商売をしていた。権力の許可がない密貿易的なものだ。

ところが織田信長が暗殺されて秀吉が勢力を伸ばし始めると、突如京都へと向かい剃髪得度(ていはつとくど。髪を剃り仏法の修行に入ること)して俗人から離れ、茶の湯の修行に励んだ。

これは宗湛が隠居して趣味の人になったわけではない。坊主ならば身分の高い人とも面談ができる。秀吉は堺の商人だった千利休などから茶の湯を習う茶人であるーーすなわち茶の湯の修行に励んだのは、秀吉に近づくための手段だったのである。

こうして宗湛は茶を通じて秀吉に接近し、最後はとうとう石田三成が給仕するほどの接待を受けるまでにその関係を深めた。

宗湛にすれば秀吉の権力の下で博多を復興させたかったし、秀吉にすれば博多の貿易から生まれる利益が欲しかったので、両者の関係構築はWIN‐WINの関係だったのだ。

かくして宗湛は秀吉の力を借りて荒廃した町の区画整理(太閤町割り)を行い、楽市楽座(関税無し)、町への武士の出入り禁止などを行った。

これらの諸政策によって、商人が自由に商売できるようになり、博多の街を復興させたのである。今の博多があるのは神屋宗湛のおかげが大きい。

なお、当時のこの辺りの国名は「筑前」であり、「博多」は都市名であった。博多は海と川に挟まれた狭い地域に限定されていた。この時、「福岡」という名前は存在しなかった。

「福岡」の誕生と、その痛み分けで生まれた「博多駅」

やがて天下分け目の関ケ原の戦いが終わり、徳川の時代になると黒田長政が家康から52万石を与えられて筑前(現代の福岡県)に入部した。

その際、長政はこの地に黒田家発祥の地である備前福岡から取って、「福岡」という名前をつけた。この時から商人の町としての「博多」はそのままに、城下町は「福岡」と呼ばれるようになったのだ。

長政も博多の経済力を利用したかったので、博多を残し、福岡には武士とともに輸出産品を製造できるような職人も連れてきた。かくして江戸時代には地図のように福岡部と博多部の2つが両方とも残ったのである。

ところが時代が鎖国政策へと移ると、海外との貿易は長崎に集中することになる。博多は残ったものの、かつての貿易港の賑わいは失ってしまった。

明治になると、福岡部と博多部を統一してひとつの市とすることになった。市施行の年、明治22年の市議会では、市の名前を博多にするかそれとも福岡にするかで大いにもめた。

武士や職人からみれば福岡であり、商人から見れば博多である。議会投票では同数引き分け、最後は議長の1票で福岡市に決まった。しかしそれでは市民の半分が不満なままである。

ところがこの年はちょうど鉄道が開通する時でもあった。そこで、両者痛み分けとして福岡市の玄関口の駅名は博多駅としたのである。

何故、福岡の駅名は博多なのか? ちょっとした疑問を調べるとその町の歴史が見えてくる。まさに栄枯盛衰。豊臣氏滅亡後の宗湛も凋落(ちょうらく)し、晩年は寂しいものとなったという。

参考文献:『神屋宗湛 西日本人物誌』武野要子、西日本新聞社

武士・職人の「福岡部」と商人の「博多部」があった

福岡のおすすめ観光スポット&グルメ

おすすめは博多の旧市街にあるお寺を巡る旅。少し歩くが博多駅から徒歩圏内にある。まずは「出来町公園」を目指し、その少し奥にある旧市街地入り口の「博多千年門」へ。ここまでくれば詳細な地図や案内板があるので迷うことはない。

饂飩(うどん) ・ 蕎麦 ・ 饅頭発祥の碑がある「承天寺」、ういろう伝来の地で神屋宗湛の墓がある「妙楽寺」、静謐(せいひつ)な境内を持ち、日本茶発祥の地でもある「聖福寺」など、各種日本発祥の地を巡ることができる。

神屋宗湛の墓がある「妙楽寺」はういろうの伝来の地でもある

日本茶発祥の「茶の木」がある、聖福寺

旧市街を巡った後は、福岡市立博物館を訪ねたい。ここには教科書でおなじみの国宝金印(漢委奴国王印)の現物が展示されている。さらに商業都市・博多の発展の歴史が詳細に展示されており、とても興味深い。

近くには「シーサイドももち海浜公園」や「福岡タワー」があり、古くからの港湾都市・博多湾の全景を見ることもできる。

また、市の中心部、天神まで移動して西鉄に乗れば30分ほどで太宰府に行ける。ここでは観光名所である「太宰府天満宮」にお参りすると同時に、近隣の「九州国立博物館」も訪ねたい。

東京、奈良、京都に次いで日本で4番目にできた国立の博物館で、開館以来掲げてきたのは「学校より面白く、教科書より分かり易い」という目標である。歴史系の博物館らしく歴史好きの者たちの興味をかき立てる。

歴史系の「九州国立博物館」は歴史好きにはたまらない

長らく博多と言えば白いスープのとんこつラーメンという時代が続いたが、最近では博多出身の芸能人たちの熱心なアピールもあり、博多といえば「やわらかいうどん」が定着しつつある。

写真は博多三大うどんのひとつ「牧のうどん」。中心街に店舗展開はしていないが、博多駅前のバスターミナルに支店がある。食べている間にもふにゃふにゃの麺が汁をすうので、それを補完するための出汁の入ったやかんがついてくる。

ごぼう天のせの肉うどん。やらわらかいうどんに汁が染み込む

博多は、九州のブランド鶏や玄界灘の魚介を中心とする居酒屋が充実している。写真は居酒屋「太郎源」の明太子。呼子のイカや博多名物のゴマサバなど何を注文しても美味しくてリーズナブルである。

リーズナブルで美味しい居酒屋「太郎源」の明太子

博多名物と言えば夜の屋台だが、屋台料理は多分読者が想像しているよりも美味しいと思う。バリエーションも豊富で、おでん、焼き鳥、ラーメン、その他なんでもある。「やまちゃん」はとてもおいしかった。

博多名物の屋台料理は、バリエーションも豊富

博多のオーセンティックな老舗バーと言えば中州にある「ニッカバー七島」である。筆者も数十年前から博多に来ればここである。ひとたびドアを開けると、賑やかな中州の喧噪から遮断された静謐な時間が楽しめる。バーとはこうあって欲しい。

静謐な時間が楽しめる、中州の「ニッカバー七島」