47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです! 思いっきり旅行できるときに備えて、板谷さんと一緒に旅しているようなひと時を味わってみませんか?
第5回は岩手県。「平民宰相」として知られる原敬の出身地です。原敬の半生を知ると、あともう少し長生きしてくれていたら……! と悔やまずにいられなくなります。
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「原敬」と「山田線」の面白い関係
宮古行きの列車が盛岡駅を出発すると、すぐに急な勾配にとりかかる。山田線である。
標高751メートルの区界峠(くざかいとうげ)まで、まるでジェット・コースターが最初に一番高いところまで持ち上げられるかのように一気に登り詰める。
渓流に架けられた橋とそれに続くトンネル、渓谷に響く「ジジジジ」という目一杯ふかしたディーゼル・エンジンの音、そして登り詰めたその後に訪れる「カタッ、コトッ」という車内の静謐(せいひつ)、列車は区界峠を過ぎると閉伊川(へいがわ)に沿って宮古までほとんど惰性で下っていく。
岩手県は奥羽山脈と北上山地に挟まれた北上川沿いの平野部に都市が発達した。現在新幹線が走っているルートだ。鉄道が開通する以前はここを流れる北上川舟運(しゅううん)が東京との物流を担っていた。
一方で山深い北上山地はこうした都市と陸中海岸(りくちゅうかいがん)との連絡を困難なものにしていた。
誰かに「一番好きな鉄道路線は?」と聞かれたならば、私は迷わず「山田線」と答えるだろう。今ではバスにすっかりお株を奪われているが、陸中海岸と盛岡を結んだこの鉄路は美しい景色とともに岩手県の政治家・原敬(はら たかし)との面白いエピソードを持っているからだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
原敬は「賊軍」が多い東北出身。しかも「平民」
明治維新のころ東北地方は奥羽越列藩同盟など、幕府に義理を立て筋を通したことで、賊軍とされた藩が多かった。そのため東北人は中央政界ではなかなか出世が難しかった。
そんな中、原敬は初めて国務大臣になった東北人である。担当は逓信省、1900年のことだった。逓信省とは戦前に郵政、通信、海運などを管轄した省庁だ。
そして第一次世界大戦の最中の1918年、政友会総裁になっていた原は東北地方出身者としては初めての内閣総理大臣になった。薩長閥でも華族でもない。平民宰相。そしてこれは日本初の本格的政党内閣だった。日本版民主政治の原点である。
フランス語を武器に大出世
原は苦学の末、フランス人宣教師の学僕(がくぼく:師などの家に住み込み、雑用をしながら勉学する人のこと)になることでフランス語を習得、その語学のおかげで外務省入省後はパリ駐在を経験する。
その後は、甲申事変(こうしんじへん)で李鴻章(り こうしょう)と交渉を進め、伊藤博文らに認められた。フランス語が専門の原敬がなぜ李鴻章とリレーションを築けたのかというと、当時は清国とフランスが戦っていて、李鴻章がフランス語の情報を渇望していたからである。
そして外務省から農商務省に移り、当時省内を専横していた薩摩閥を一掃すると、同じく外務省から農商務省の大臣になっていた陸奥宗光から認められ、いよいよ出世の階段を登っていった。
重鎮を巧みに操縦する政治力
1900年に伊藤博文が政友会(立憲政友会)を創設するとこれに参加、伊藤や西園寺公望とともに党勢を盛り上げていく。この時使った票集めの手法のひとつが「我田引鉄」と呼ばれるものだ。よそは構わずに我が田んぼだけに水を引く「我田引水」のパロディで、政治家が鉄道敷設などの利益誘導と引換に票をもらう。古くさいが現代においてもよくある手法である。
エピソードが残っている。山田線の敷設が具体化したのは、地元盛岡出身の原が首相在任中の1920年のこと、山深い北上山地を越えて陸中海岸と接続する交通機関はまだ無かった。
しかしこの時野党の憲政会は猛反対、我田引鉄だというのだ。
「こんな所に鉄道を敷いて、第一沿線に人が住んでいないじゃないか。首相は山猿でも乗せるつもりか」と手厳しく原を非難した。
すると原は、「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は鉄道には乗せないことになっております」と何食わぬ顔で答弁したそうだ。これに議場は大ウケ。山田線は開通のはこびとなった。
利害が絡む海千山千の政治屋が跋扈(ばっこ)する政友会、党内をまとめあげるだけでも大仕事だが、宮中、党の重鎮・西園寺公望、党外では薩長閥の山縣有朋までも巧みに操縦する原の政治力、調整力は無二のものだった。件の「山猿でも乗せるつもりか」に対する返答も、原の物事を「いなす」力量を示しているといえよう。
ちなみに昭和天皇が皇太子の頃、海外の見聞を広めるために欧州への外遊を計画したのも原敬である。「海外渡航なんてとんでもない」と原の家には全国から脅迫状が山のように届いたそうだが、原は動じなかった。そしてそれが現在の皇室外交の基礎になっている。
暗殺の日。もしも是清の忠告に従っていれば……
原内閣が成立して3年が経過した1921年11月4日、当時原内閣の大蔵大臣だった高橋是清は関西の党大会に出席しようとする原に「行くな」と朝から顔を見るたびに何度もしつこく忠告した。いやな予感がしたのだ。かくしてその日の午後7時すぎ、原は出発前の東京駅で刺殺された。殺害したのは、原に批判的な思想をもつ駅職員だった。
原とは確執のあった華族の西園寺公望も、政党嫌いの山縣有朋でさえも原の死を嘆き悲しんだという。政友会はこの後高橋是清に委ねられるが、党は政友会と政友本党に分裂してしまう。
原が生きていれば、その後の日本の民主主義もよほどかわったものになっただろう。
彼にはもう少し長く生きてもらい、日本に政党政治を根付かせてもらいたかった。さすれば軍部の暴走も起こらず第2次世界大戦への道は避けられたのかもしれない。
1923年、いざ山田線が開通すると、山猿どころか、列車は超満員のすし詰め状態だったという。山田線は陸中海岸という孤立した地域で、当時隆盛を誇った釜石製鉄所の唯一の鉄道連絡線となって大繁盛となったのだ。
山田線は今も昔も確かに沿線にあまり人が住んでいない。ガラガラの車両にはポツリポツリと山猿が乗り、一番奥の席にはシニカルに笑う原敬が座っているような気がした。
教えて板谷さん!原内閣が「日本初の本格的政党内閣」ってどういうこと?
選挙で選ばれた多数党(議会で、多数の議席を占めている政党)の首班が首相に任命されたということです。それまでは、首相は山縣ら元老が次期首相を相談して決めていたため、華族や薩長閥に都合の良い人ばかりが指名されてきました。
しかし、第1次世界大戦後、デモクラシー(民主主義)が世界的なブームとなっていきます。日本でも、政党を代表する首班が任命されるかと期待されました。しかし、結局長州の寺内正毅が任命され、国民は失望します。そのため、寺内が死んだあと、山縣は断腸の思いで平民で東北出身の原敬を指名したというわけです。
原内閣は、元老による指名ではあったのですが、選挙で選ばれた多数党の首班が首相に任命されたことに意義がありました。
岩手県のおすすめの観光スポット&グルメ
東京駅を朝早く立てば、盛岡で11時過ぎの山田線宮古行き始発に乗ることができる。宮古に出て釜石を経由して釜石線で花巻に戻って来る。この場合、日帰りで東京まで帰るのはちょっと苦しいので、途中遠野あたりで1泊するのも方法だ。ここには民俗学者・柳田國男の『遠野物語』の世界がある、上手く行けば物語に登場する伝説の河童(カッパ)に出会えるかもしれない。
また、とりあえず盛岡で前泊りして山田線に乗る方法もある。盛岡で1泊すれば、翌日の朝の始発までの時間に、市内の原敬記念館を訪れることができる。私見だがここの見どころは、原宛に届いた有力な政治家達の直筆の書簡が数多く展示されていることだ。何事にも細かく口を挟む山縣有朋は小さい字で細々と意見を書き、元海援隊で藩閥の後ろ盾無く維新を切り抜けた陸奥宗光は大胆な字で用件だけを簡潔に記している。歴史上のイメージと文字が繋がってとても興味深い。
岩手も美味しいものはいっぱいある。盛岡はどうしてもわんこそばに冷麺・焼き肉が有名だが、食べ物もさることながら、実はオーセンティックなショット・バーが多い。盛岡の夜はカクテルを片手に静かにバーテンダーと語り合うのもおすすめ。
山田線宮古行きは1日4本しかない。始発に乗ると、どうしたって宮古で昼食になる。漁港だから海産物はもちろん良い物があるが、ここは「中華そば たらふく」のラーメンをおすすめしたい。
シンプルな魚介系醤油スープにまるでチキンラーメンのような麺。メニューはこの1品、大盛りも”麺カタ”も何も無い。私が受けたシンプルな印象は、ものすごく美味いチキンラーメン。極めて独創的だ。
そして意外と知られていないのだが、フォルクローレ(民俗学)の里、遠野はジンギスカンの里でもある。ジンギスカンは北海道だけだと思い込んではいないだろうか。この街では古くから羊肉が食べられ、今では七輪の代わりにブリキのバケツを使うバケツ・ジンギスカンで有名である。伝統的な食材だけに収まらない東北の食の多様性を知るためにも一度は食べておきたい。